ハレルヤじじいの福音ブログ

ギターの好きなじじいです。

阿弥陀仏とキリスト

むかし、むかしの物語り・・・
山奥の小さな集落に かやぶき屋根の小さなお堂があった。
当番の者がカーン カーンと小さな鐘を叩きながら集落を回る。

婆ちゃんや母ちゃんや子供達が小さなお堂に集まって来る。
お念仏の始まりだ。みんなで輪になって大きな数珠を回しながら
なあむうあみいだい~ぶつ ~なあむうあみ~だい~ぶつと
唱えると言うよりは唄う。実に、哀愁を帯びたメロデイ ーである。
お堂には囲炉裏があり柱は黒くすすけている。
いつ頃からお念仏は続いているのだろう。
人生50年と言われたその昔、死というものが身近にあった。
大きな数珠を回しながら唄う念仏は愛するものを喪った人の
哀しみを癒し、哀しみを分かち合う そんな癒しのお念仏・・・

おいらの師匠が言われた!
阿弥陀仏とはキリストのことだよ!と
そこで広辞苑で調べてみると・・・

阿弥陀仏とは無量寿、無量光の悟りを得たものの意)
無量寿               無量光          仏
「無限の寿命を持つものの意」  「無限の光明を持つものの意」
 「悟りを得たもの」

聖書の対比箇所       
「神は、実にそのひとり子を      エスはまた彼らに語って言われた。
お与えになったほどに、        「わたしは、世の光です。わたしに

世を愛された。それは         従う者は、決してやみの中を
御子を信じるものが、          歩むことがなくいのちの光
ひとりとして滅びることなく、      持つのです。」ヨハネ8:12)
永遠のいのち
持つためでである。」
ヨハネ3:16)


なんと聖書の記述ににていることか・・・
又、阿弥陀来迎図などは キリストの再臨記述にそっくりである。


804年 最澄空海遣唐使の留学僧として唐に渡る。
この時すでに景教「光り輝く教えの意」ネストリウス派
キリスト教が時の唐朝に保護され、広く浸透していた。
一説によると空海新約聖書最澄旧約聖書
持ち帰ったと言う。
最澄は1年、空海は2年 それぞれ学び帰国
時の天皇が仏法を国家安泰の要とし
平安時代、仏僧は公務員であった。

いつの時代も為政者は宗教を利用する。
徳川家康は仏教を明治政府は神道を・・・
その為それが社会のしくみとして現存し
信仰心はないけれど 
昔から やっているから・・・
周りがやっているから・・・と
言う人がなんと多いことか・・・

おっと、ちょっと横道にそれました。

 
1175年法然43歳の時 比叡山を降り 
「極楽に生まれ変わるには阿弥陀仏にすがり
南無阿弥陀仏と唱えよ」と言う浄土宗を開く
(南無とは帰依、帰入の意、)


1202年親鸞29歳の時 20年学んだ比叡山を降り
やがて法然の弟子となる。
国家の為でなく、民衆の為の救いを説いた。
有名な歎異抄
「善人なほもって往生をとぐ、いはんや悪人をや。」
苦行や修行、善行によって往生成仏できるのでなく
「どうにもならぬ我を認め」自力でなく 他力本願により
南無阿弥陀仏と唱えればだれでも救われると説いた。
(南無とは帰依、帰入の意、)

1207年法然70歳、親鸞34歳の時
法然は四国の讃岐へ、親鸞は越後に流罪となり
法然は同年許され京都に帰る。
僧籍を剥奪された親鸞は4年後赦免され、
東国(関東)で20年間布教する。
親鸞は生涯を非僧非俗で通す)
その後京都に戻り 90歳で往生された。
本願寺親鸞亡きあと 弟子達により設立される。
本願寺には『世尊布施論』と言う 聖書の「山上の垂訓」などが
書かれた書物があると言う。
ここにも景教ネストリウス派キリスト教)の
影響がうかがえる。


親鸞とルター
親鸞とルターはともに宗教改革者である。
親鸞阿弥陀無量寿、無量光)の信仰を民衆のものとした。
一方ドイツのルターは聖書をドイツ語に翻訳し民衆のものとした。
だれでも聖書を通してキリストのことば、神の御心を学べるようになった。
だれでも南無阿弥陀仏と唱えれば救われると言う 他力本願の信仰は
救いの権限は無量寿、無量光の悟りを得たものの側にあると言うことである。
仏教とキリスト教の違いはあっても この他力本願は学ぶに値いする。

おいらの師匠はキリストに直結する者にならなければだめだよ!と言われる
キリストこそ 父なる神の御前に自分を捨てきった者、即ち 無者キリスト
あったとして漢字でこんな信仰の極意を表された。

  『無即  無量  無限』
    (おのれを捨てきる時、そこに神の力が働くの意)

『南無キリスト!』と 救い主キリストに帰依、帰入、祈入するとき
十字架、復活、昇天、聖霊降臨と救いを成就されたキリストは
キリストの御霊なる聖霊(助け主、慰め主)を通して
時を越え、時代を越え、瞬時に祈り求める者を救ってくださる。


主は心の打ち砕かれた者の近くにおられ
たましいの砕かれた者を救われる詩篇34:18)

 

主の御前では一日は千年のようであり
千年は一日のようです。(ペテロⅡ3:8