ハレルヤじじいの福音ブログ

ギターの好きなじじいです。

群馬県が生んだ キリスト教界 三大巨峰!


群馬県が生んだ キリスト教界 三大巨峰!Ⅰ』

 
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群馬県高崎市は七転び八起きのだるまの大産地!
 
達磨は禅宗の開祖
 雪が降ると作る雪だるま子供たちは大好きだ
また縁起物として年末、年始に縁日で売られている
だるまは願いをかけて墨で片目を入れ、
願いがかなうと もう片方の目を入れる。
選挙戦で当選者が大きなだるまのもう片方の目に
墨で目を入れる映像はおなじみである。
 
達磨大師は壁に向かってひたすら座りつづけ
苦節9年!悟りを開かれたという。禅宗のお寺には
禅道場があり無念無想の境地をもとめ、
禅に親しむ方々がおられる。
 
七転び八起きで親しまれる縁起物のだるま
群馬県高崎市はこのだるまの大産地である。
 
高崎市から栃木県日光市への日光街道の途中に
富弘美術館がある。
群馬県みどり市東町草木86)
星野さんは若い頃、中学校の教師をされていた。
ある時 事故で首から下の自由を失う。
入院中 口に筆をくわえ 
        詩や絵を描きはじめる・・・
苦節9年、初めての展覧会が開かれる。
以来、全国各地、さらに世界各地でも
展覧会が開かれ多くの著作も出版され、
多くの人々に感動をあたえる。
 
入院中に知人から頂いた聖書を読み、
愛の神キリストへの信仰を授かる。
 
そんな星野さんが無念無想の境地というか、
悟りの境地で書かれた、実に含蓄に富んだ
詩をご紹介します。
 
 (素敵なぶどうの絵に添えられた素敵なことば!)
 
 喰われてもよし
 つぶされてもよし
 干されてもよし
 一番甘くなって枯れよう
 
 
 
 

愛 、深き淵より。
 
星野富弘[筆をくわえて綴った命の記録]
 
この本を何年ぶりかで読みました。
一話ごとに涙があふれ、止りませんでした。

 
学生時代は登山に熱中!高い山に登っては 
山頂で逆立ちしていた星野さん!
そんな活動的な星野さんが 高崎市の中学校
体育教師として赴任 わずか二か月で
事故の為、手も足も動かなくなってしまった。
顔に止ったハエさえ追い払えなくなってしまった。
 その心の苦悶は推察するに余りある!
この本には、闘病時の多くの感動的な出来事が
綴られているが・・・ あとがきには、
『結局、本当に苦しかったところは 
ほんの上っつらしか書けませんでした。』
記されている。
少年の頃、家の手伝いで裏山の畑に堆肥を
背負い上げていた時、白い十字架の墓碑に
 『労する者、重荷を負う者、我に来たれ』
聖書の言葉に初めて出会う。聖書を読み進むうち 
このキリストの言葉に出会い 
ほんとうの意味を知る。
 
『すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに
来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。
わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたも
わたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。
そうすればたましいに安らぎが来ます。
わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。』
(マタイの福音書11:28~30)(新改訳聖書
 
そしてキリストと伴に歩む者とされる。
 
『それは、艱難が忍耐を生み出し 忍耐が
練られた品性を生み出し 練られた品性が
希望を生み出すと知っているからです。
この希望は失望に終わることがありません。
なぜなら、私たちに与えられた
聖霊(キリストの御霊)によって、
神の愛が私たちの心に注がれているからです。』
                    (ローマ人への手紙5:3~5)(新改訳聖書
 
ご自身の弱さや醜さを捨て、
希望に ご自身を委ねられた星野さん!
 
 
 
『主は心の打ち砕かれた者の近くにおられ
たましいの砕かれた者を救われる。』詩篇34:18)(新改訳聖書
 
 多くの愛あふれる星野さんの詩画、著作を
どうぞ、お読みになって下さい。
 
 
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(富弘美術館は、わたらせ渓谷 草木湖畔にあります。)
 星野富弘さんの美術館のURLです)
 
※聖書にある七転び八起き
正しい者は七たび倒れても、また起きあがる箴言24:16)
(紀元前900年頃、ソロモン王の作)
 
 


 
 
 
群馬県が生んだ キリスト教界 三大巨峰!Ⅱ』 

 
 
 
 
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『Boys,be ambitious !』
                in Christ

 『少年よ 大志を抱け!』 キリストにありて
この言葉は、札幌農学校のクラーク博士の言葉として
あまりにも有名である。
 
つぎなるお方は、この札幌農学校 2期生の
(同期に新渡戸稲造がいる
 
 内村鑑三は明治からさかのぼること、7年前 1861年に
江戸詰めの高崎藩士の長男として生まれる。

 <この頃の日本及び、世界の出来事>1860年~1863年
日本では桜田門外の変がおき、 咸臨丸が太平洋を横断。
フランスではユーゴーが「レ・ミゼラブル」を書く。
アメリカでは南北戦争が起き リンカーン奴隷解放を宣言!

 鑑三11歳の時 
家族と共に高崎に戻り 高崎藩の英学校に学ぶ。
13歳にして単身 上京!英語を学ぶ。
17歳の9月 札幌農学校(2期生)に入学。
(同期に新渡戸稲造がいる)
12月1日クラークの残した「イエスを信ずる者の契約に署名」
21歳で農学校を卒業 その後、札幌県や農商務省などに
勤務している。
25歳 1885年(明治18年)渡米。同年1月
(この年 伊藤博文が初代内閣総理大臣になった)
ペンシルベニア知的障碍児養護院に看護人として勤務、
9月にはアマースト大学に選科生として入学
26歳 1886年 回心を体験 !
 新島襄の師でもある 学長シーリーから訓育を受ける。
 
『おのれを見るな!君が罪を贖いし主の十字架を見よ ただ十字架を』
 
27歳 大学 卒業 
同年9月 神学校入学 しかし、翌年1月には退学し帰国する。

詳細は内村鑑三著 『余は如何にして基督信徒となりし乎』に記されている。
この本は英文で書かれ日本語版はそれを訳したものである。
その後、数か国語で訳され特にドイツ、スイスで 高評された。

帰国し各地で教職に就く ある時 式典で
天皇のお写真と教育勅語に最敬礼しなかった(不敬事件)
激しいバッシングを受け 病に倒れ 意識不明の重体となる。
看護と事件の対応に負われた妻も病に倒れる。
鑑三は回復するが 妻は天に召される。
 


 「明治天皇の 孫であり、牧師である小林隆利牧師の証言」
不敬事件で社会の激しいバッシングをうけた内村鑑三であるが
のちに、明治天皇内村鑑三を誉め、あれが本物だと評価され
内村鑑三明治天皇に招かれて聖書の講義をした。
また、内村鑑三の初期の弟子 畔上賢三(信州上田町出身)
一番長く明治天皇に聖書講義をした。


 
その後は著述や文化講演をするようになる。
著名人も多い。
 
1900年 (明治33) 40歳 
 「第一回夏期講談会」開催
 『聖書之研究』創刊
多くの読者を得、やがて知識層の中に伝道者が輩出される。
帝国大卒の塚本虎二や藤井武等は役人の職を捨て
伝道者となっている。
詳細は赤江達也著 《「紙上の教会」と日本近代》をお読み下さい。
 
1901年(明治34) 足尾銅山鉱毒地を視察(鑑三と正造の接点)
この年、社会主義者幸徳秋水等 数百名と共に
田中正造の案内で視察 
群馬、栃木両県の渡良瀬川流域に多くの被害を出した
にも関わらず、時の政府は洪水防止の為として
谷中村を強制移住させ全村を堤防で囲み鉱毒をここに
沈めた。今も渡良瀬遊水地として現存している。
この年 衆議院議員だった 田中正造は農民救済を
追及するが 富国強兵邁進の政府はこれを無視
仕方なく議員を辞し、天皇に直訴、(直訴は死罪)
しかし、狂乱者として捕らえられ投獄
獄中で聖書を読むようになり
私はキリストを信ずると言われたという。
 
 この年 、内村鑑三北アルプスを望む信州 安曇野 
穂高ある「研成義塾」を訪れ 三日間に渡り
『心理の攻究法』と題して連続公演を行っている。
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穂高にあるわさび農場から北アルプスを望む) 
 
 
 
研成義塾の塾頭、井口喜源治と同郷の彫刻家 荻原碌山
内村鑑三の「第一回夏期講談会」に参加している。
研成義塾の教育理念に感動した鑑三は1903年、1910年にも
講演に訪れている。
 
 鑑三と喜源治の祈りの花が米国で咲いた!
 研成義塾の卒業生70人余が米国のシアトルに移住した。
この元塾生の2世、人権活動家 ゴードン・ヒラバヤシ氏が
人権擁護活動を評価され大統領自由勲章を授与された。
(詳細はこのブログ ちいさなロバの部屋の「内村鑑三と研成義塾と大統領勲章」をお読み下さい。)

下記はkoichi.sasakiさんの内村鑑三の著作を現代訳する試み
「北信侵入日記 明治33(1900)年9月30日」のURLです。
この頃の内村鑑三の地方でのご様子がいきいきと記されています。

 1912年(明治45)
最愛の娘 ルツが原因不明の病で天に召される。
ルツの命があとわずかと知らされた鑑三はルツの信仰の
教導を東洋宣教会の笹尾鉄三郎に委ねる。
ルツは平安の内に天に召される。そのとき鑑三はルツは
死んだのではなく、天に嫁いだと言った。
天での再会を期し、墓碑には『再(ま)た会う日まで』と刻んだ。
 
 1918年(大正7)
再臨運動
この頃 ヨーロッパで第一次世界大戦が起き、
アメリカまでも参戦してしまう事態に、
衝撃をうけた非戦論者の鑑三は大きく失望する。
そして ホーリネス教会の中田重治、組合教会の木村清松等と
「キリスト再臨運動」を開始
東京で開かれた講演会には多くの聴衆が集い、時には2000人を
超える人々が集まった。さらに日本各地での公演も開かれた。
しかし、この運動の中で「キリストの再臨は近いうちにある」と
する様な終末予言「再臨狂」的な人々とは一線を画するようになる。
鑑三は「我らは神の定め給ひし時に必ず再臨があると信ずる」とし
2年余りでこの運動から離脱している。

《内村氏は様々な問題や判断をようする時、自分の思いでなく神のみ思いに
委ねられていた。それは内村氏の信仰の原点、シーリー先生の導かれたことば
『おのれをみるな!君が罪をば贖いし 主(キリスト)の十字架を見よただ十字架を!』
に帰されていた。》

 伝道者にして著述家 その著書は諸外国でも翻訳され出版された。
キリスト者作家の先駆け!であり、文化人や多くの人々に影響を与えた。
非戦論者として歴史の教科書にも紹介されている。
無教会であっても、決して反教会ではなかった。
キリスト信徒であってキリスト教徒ではなかった。
 
 
ルカの福音書より (塚本虎二訳)
「反対しない者は」(9:49~50)
ヨハネが言った、「先生、あなたの名を使って悪鬼を追い出して
いる者を見たので、止めるように言いました。わたし達と一しょに
あなたに 従わないからです。しかし言うことを聞きませんでした。 
エスヨハネに言われた、「止めさせるには及ばない。
反対しない者はあなた達の味方である。 

 1930年(昭和5)70歳
地上での働きを終えられ天に召される。
自らを罪びとの頭と称され 主の十字架の御前に
ひれ伏され 波瀾万丈の地上の歩みであっても
キリストがともに歩んで下さった そのご生涯は
御著書の『後世への最大遺物』の如く
キリストにありて、偉大な足跡を残されたお方である。




讃美歌 405 「神ともにいまして」
また会う日まで、の歌詞が出てきます。下記のURLを押してお聴き下さい。






 
 

群馬県が生んだ キリスト教会 三大巨峰!Ⅲ』

 
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  Fact is stranger than fiction!
事実は小説よりも奇なり
 
つぎなるお方は、日本に私学の道を開き、
同志社大学の基礎を築かれた 新島襄
                                     (ジョー)
新島襄こと、幼名 七五三太(しめた)は1843年
安中藩江戸屋敷で生まれる。四人の姉の後に
待望の男の子が生まれ 元神官の祖父が
丈夫に育つようにと目出度い名を付けたのだろう。
 
13歳になった七五三太は蘭学を習い始める。
17歳で幕府の軍艦操練所で数学と航海術を学ぶ。
19歳の時 眼病にかかり軍艦操練所を退学。
私塾にて 兵学 測量 数学を習う。
翌年にかけて二か月間 備中松山藩の洋式帆船 快風丸
江戸から玉島岡山県倉敷)まで往復する。
20歳の時 英学を習い始める。
 


この頃の友人に蘭学者杉田玄白の子孫で廉卿(れんけい)という人が
いた  この人は宗教心の深い人で解剖学などを究めていくうちに
聖書の神、キリストを信じるようになったという。
この人に七五三太は様々な本を借りて読んだ。
中国で宣教師が漢訳した米国の歴史地理書や聖書の要点を
まとめた本や和訳のロビンソン漂流記など
米国の歴史書には 大統領制、授業料免除の公立学校
救貧院、矯正施設、機械など 驚くべきことが書いてあった。
聖書には神が天地を創造されたことが書いてあり
十字架の贖罪、キリストが救い主であることなど信ずるようになる。
文明国へのあこがれと聖書を自由により深く学びたい!と思うようになる。


 
ある日、『快風丸』の航海で一緒だった友人に会い
風丸が函館に行く事を聞き、函館から外国に密航することを
思いつく、 友人が備中松山藩主に函館まで乗組員として
雇うべく働きかけてくれ、ともに行くことになる。
安中藩庁より函館の武田塾に一年間入門の許可も得る。
祖父は七五三太の密航を察知し、
宴の席で水杯の儀式をしてくれた。
七五三太を乗せた『快風丸』は一ヶ月かけて 函館に着いた。
 
 


 函館港は広く数百隻は収容できると記している。
港には日本の帆船3隻(快風丸を含む)、英国の蒸気船1隻と帆船2隻
アメリカの帆船2隻、プロシヤの蒸気船が2隻、
和船が4,50隻停泊していた。


 
函館に着いた七五三太は脱国のつてを求め動き始める
 武田塾の菅沼精一郎に相談し、菅沼のつてで、
ロシヤの司祭ニコライの日本語の家庭教師として
ニコライの家に住み込む、ここで、七五三太は坂本龍馬
いとこ 沢辺琢磨に出会う。
 


沢辺琢磨について
沢辺琢磨こと山本琢磨はある事件をとおして、剣の腕を買われ
やがて神主である沢辺家の婿となる。ある時ニコライをロシヤの
スパイではないかと思い込み、切り捨てようとニコライの家に
乗り込む、するとニコライは静かな口調で
「あなたはハリストス正教会について知っているのか」と問われ
知らないと答えると「話を聞いてからでも遅くない」と言われ
ニコライの所に通うようになる。やがてハリストス正教会の信徒となり
後には日本最初のハリストス正教会の司祭となる。
パウェル沢辺琢磨氏のご生涯も波瀾万丈!
まさに、事実は小説よりも奇なりである。


ニコライに脱国の志を打ち明け、協力を求めたが
耳をかさなかった。
しかたなく、外国人居留地に行き協力者を探し始めた。
そこで、出会ったのがイギリス商人に雇われた
卯之吉(後の福士成豊)だった。二人は意気投合し、
やがて七五三太は脱国の志を打ち明ける。
彼は 『心に秘めておこう』と約束してくれ
それから一週間もしないうちに
『出発の準備をするように』と言ってきた。
アメリカ船 ベルリン号の船長ウィリアム・セイボリーが
『シナ(上海)に行けば、渡米の機会があるだろう』との事で
闇にまぎれ、卯之吉に沖のベルリン号まで
送ってもらい 乗り込む! 1864年6月14日夜


この頃の 主な出来事
1863年アメリカではリンカーン奴隷解放宣言
日本では長州藩が下関で外国船を砲撃、 イギリス艦隊が鹿児島を砲撃
1864年 四か国が下関を砲撃、  函館に五稜郭が出来る。


上海に着いたベルリン号はまた、日本に引き返すとの事で
セイボリー船長は同じアメリカ船ワイルド・ローバー号の
ホレース・テイラー船長に七五三太の面倒を頼む。
テイラー船長に七五三太は大刀を贈り
アメリカ合衆国へ連れていってくれるよう念を押し頼む。
それから船長室で無給で働くようになる。
テーラー船長は七五三太をジョーと名付ける。
(ジョーはジョセフの略称、日本訳聖書だとヨセフのこと、
若き日ひとり外国に売り飛ばされ、後に出世し祖国の同族を救う旧約聖書の物語)

船は福州から上海に木材を運んだり、ベトナムサイゴンから香港に米を運んだりした。

香港滞在中、小刀を船長に8ドルで買い取ってもらい
漢訳の新約聖書を手に入れる。
船はマニラに向かい、マニラ麻を積み アメリカへ向かう
インド洋を通り、アフリカの最南端 喜望峰を回り
マニラから4ヶ月かけ ボストンに着いた。
1865年7月20日 ボストン入港
そこで南北戦争が終わった事、リンカーン大統領が
暗殺されたことなどを知らされる。
 
 荷を下ろした船で七五三太ことジョーは3ケ月
船番として過ごす。 
 この間に街に出た七五三太は本屋で
原書のロビンソン・クルーソーキリスト教に関する部分が削除されていないもの) 
買い 英語の勉強を兼ね何度も繰り返し読んだ。
異国にて先の見えない日々に不安をつのらせた七五三太は
無人島で過ごしたロビンソンと自分を重ね合わせ
神に祈り委ねるようになり 不思議な平安を経験する。
 
 やがてテイラー船長はこの船のオーナーであり
ハーディー商会の社長である大実業家
A・ハーディー氏を引き合わせてくれる。
七五三太の篤い志に感動したハーディーは
「5年でも10年でも学費を出そう」と言ってくれ
大学四年、神学校二年の全てを賄ってくれた。
 
 

若き日、ハーディー氏は病気と経済的理由から牧師への
夢を諦めざるを得なかった。
ご自身の夢を七五三太に掛けられた。
また、七五三太の志の中に神の導きを感じたのだろう。
 七五三太が日本の家族に宛てた手紙に
〈ハーディー氏が援助して下さるのは
『天上独一真神』(創造主)への信仰からです。〉
と記している。

 
ハーディー氏の期待と祈りに応え、ジョーはやがてミッションの
宣教師として日本へ遣わされ 帰国し同志社大学を設立する。
事実は小説よりも奇なり!正に、活ける神様のお働きを感ずる。
米国で七五三太は日本の為にもうひとつ大きな働きをする。
 
 七五三太の8年に及ぶ留学はフィリップス・アカデミーから
始まった。ジョーには言葉のくせがあった為、ハーディーは
学校近くのヒドゥン家に下宿させた。この家に下宿していた
フリント夫妻は七五三太の家庭教師となり
学校の勉強や聖書について教えてくれた。
約1年半でフィリップス・アカデミーを終了
 
1867年 アーモスト大学へ進学!(日本では大政奉還 江戸から明治に)
ハーディーはシーリー教授にジョーの世話役を依頼

後に新島譲の紹介でアーモスト大学に学んだ 内村鑑三
このシーリー教授から大きな感化を受けた。

1870年(明治3年) アーモスト大学卒業
              アンドーヴァー神学校入校
 
1871年 駐米公使の森 有礼(ありのり)がパスポートを出してくれ 
脱国者の七五三太も正式に帰国できるようになった。
 

初代文部大臣 森 有礼
薩摩藩士、1865年 七五三太がボストンに着いた同年イギリスに留学、
その後アメリカにも留学 キリスト教にも深い関心をしめした。
文部大臣として教育制度の確立に尽力、
全て官費で賄う教師養成 師範学校制度もこの頃作られました。
 しかし、1889年(明治22年) 
大日本帝国憲法発布式典の当日、国粋主義者により 暗殺 43歳
息子の森明は中渋谷教会 牧師
孫の森有正フランス学者

 
1872年 日本公使館から、岩倉使節団への協力要請!
文部理事官 田中不二麿が秘書、通訳を依頼
アメリカ各地を視察後、翌年にかけて欧州各地を視察
 この時アメリカに5人の女子留学生が随行した。
この中の最年少8歳の津田梅子の父は七五三太の
友人であったこともあり、彼女らに滞在における多くのアドバイスをした。
 
1873年 イギリスからアメリカに戻り
アンドーヴァー神学校に復学。
 
1874年(明治7年)
アンドーヴァー神学校卒業
牧師試験に合格
新島は帰国に際しミッションの宣教師に任命された。
ミッションの年会で新島は日本にキリスト教の学校を
建てたいので是非、献金を!と呼びかけ
5000ドルを得、これが帰国して建てた
京都の同志社英学校の資金となった。
 
サンフランシスコからコロラド号で横浜港に入港!
帰国した新島は人力車を3台雇い 
約100キロの道程を20時間駆け
懐かしい群馬の安中の家族の元へ帰郷した。

 帰宅した時 すでに祖父と弟は亡くなっていた。
父はリュウマチで床についていたが起きあがり 七五三太の挨拶をうけた。
七五三太の挨拶に父は一言も答えず、かがみ込んでしまった。
気が付くと 父は畳に涙を落としていた。
 日を改めてハーディーからの手紙を家族に読み聞かせた。
半分も読まないうちに ハーディーの七五三太にたいする親のような親切に
全員が感動して泣いてしまった。
父は「ハーディー様は私たちの救い主で神様だ」と言った・・・
それに対して七五三太こと襄は
アメリカで親切にして下さった方々を神にしてはいけない
彼らは人類の救い主であるキリストに謙虚に従う弟子として自分を
助けてくれた。ありがたく思うなら 彼らの崇拝する
宇宙の創造主、人類の救い主を拝まなければならない。」と言った。

 
襄の宣教により家族も救いにあずかり
やがて安中教会へと発展した。
 
1875年(明治8年) 大阪に赴任
山本覚馬と京都で出会い、学校設立の協力を得る。
京都府顧問)
 
1876年(明治9年)
覚馬の妹 八重と結婚
女子塾開設
 
1877年(明治10年)
同志社女学校開設
 
1882年(明治15年)
大学設立運動に着手
 
この頃の新島は正に東奔西走!多くの著名人に
協力要請している。
 
1890年 1月23日
急性腹膜炎の為、死去 46歳
 
同志社大学は覚馬、八重を始め 新島襄の意思を継ぐ
人々により 現在、学生数26000人余
総面積 東京ドームの19倍に発展した。
 



讃美歌320「主よみもとに近づかん」 新島襄の愛唱歌 
下記のURLでお聴き下さい。