ハレルヤじじいの福音ブログ

ギターの好きなじじいです。

雨ニモマケズのモデル 斉藤宗次郎

雨ニモマケズ 風ニモマケズ
この詩のモデルは賢治と交友があり
様々な迫害に耐えた花巻で
初めてのキリスト者
斉藤宗次郎と云われている。
 
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宮沢賢治 (1896明治29年~1933)と
     斉藤宗次郎(1877【明治10年】~1968)が生きた
明治という時代
1904年 日露戦争 始まる
反戦の声
 
与謝野晶子は「君死にたまふことなかれ」を発表
 
内村鑑三キリスト者の立場から戦争反対を主張!
 余は日露非開戦論者であるばかりでない。
戦争絶対的反対論者である。戦争は人を殺すことである。
しこうして人を殺すことは大罪悪である。しこうして大罪悪を
犯して個人も国家も永久に利益を収め得ようはずはない。
戦争の利益はその害毒を償うに足りない。戦争の利益は
強盗の利益である。       万朝報1903(明治36)年6月30日より
 
 若き日の斉藤宗次郎は万朝報を読み 自らも非戦論を唱え
「納税拒否、徴兵忌避も辞せず」との決意をする。
心配した内村が花巻を訪れ説得し 斉藤は翻意するが
県当局からにらまれ、教職を失う。
 
 その後、新聞取次店を始め 様々な迫害を受けながらも
朝3時に起き、夜9時に聖書を読み 祈って寝る生活を
花巻で20年間続ける。
何度か結核に罹ったが不思議に日々の暮しは守られた。
 
 ヤソ 耶蘇とあざけられ石を投げられたりガラスを割られたり
近くの火事の時 水をかけられわざと家を壊されたり 
迫害は家族にも及び、長女が9歳の時 腹を蹴られ
腹膜炎をおこし数日後に亡くなるという事件まで起きる。
 
 それでも大雪の朝には小学校の通学路の雪かきを続けた。
また 地域の子どもたちにはあめだまをよくくれたという。
 
 そんな花巻での日常の中に宮沢賢治との出会いや
交流があった。賢治の家が質屋をしており 宗次郎が
金時計を質入れに来て 気の毒に思い多めに用立てたいう。
賢治が農学校の教師の時、宿舎に新聞の集金に来た
宗次郎を招き入れ、ストーブにあたりながら 蓄音機で
ベートーベン、モーツァルトドヴォルザーク
聴かせてくれたという。
また 賢治は内村鑑三の「聖書の研究」も読んでいた。
 
次女が暮らす 東京に内村鑑三に招かれ 50歳の時
私財を整理し 旅立つその日 駅には町長をはじめ
先生 生徒ら 地元の人々が大勢見送りに来てくれた。
その中に 宮沢賢治もいた。
 花巻の人々のために祈りながら暮らしたまさに、
雨ニモマケズ』の詩のような歳月であった!
 
東京に出た 斉藤宗次郎は今井館聖書講堂
管理人として働き 内村に忠実に仕えた。
 
信州 安曇野 研成義塾の30周年記年には 
病に倒れた内村に替わり訪れ その言葉を代読した。
 
内村鑑三の信頼篤く 内村が天に召されるまで
隣の部屋で寝起きした。
 
内村鑑三関連URL

https://fuutengg.hateblo.jp/entry/10785327

 
研成義塾URL 
 
安曇野探訪と研成義塾URL
 


日露戦争で日本は勝つには勝ったが 多くの犠牲をだし
 「旅順攻略」では 五か月間で死者36000人
日本海海戦を含む 総死者数は88133人を出した。
増税に苦しみ、多くの犠牲を払った国民は 賠償金もとれない
条約交渉に不満を示し 日比谷焼打ち事件を起こした。
旅順攻略の戦いで 指揮をとった乃木稀典は二人の息子を
この戦いで失った。この戦いの責任を感じていた乃木は
明治天皇大葬の日、妻と共に殉死している。
やがて、富国強兵の道は 日韓併合へと進み
広島、長崎の原爆まで続いた。