内村鑑三と研成義塾と大統領自由勲章
キリストにありて
北アルプスを望む信州 安曇野 穂高に
1898(明治31)年小さな私塾が
生まれました。
その名は研成義塾、経済的に上の学校に進学できない、小学校を終了した
子供達の学びの場でした。
旧制中学では食費や学費で月5円以上かかる時代、
研成義塾の授業料は月30~50銭でした。
塾頭、は井口喜源治(1870~1938年)
「人はいかなるものになろうとも、
なにをしようとも、その前に良き品性の人になれ」と
キリスト教の人道主義に基ずく「人格教育」を掲げ、
全10科目、とくに英語は力を入れ毎日課していた。
1898~1938年の40年間に巣立った子供達は
800名近くにのぼり、朝日新聞の自由主義評論家 清沢洌、
ワシントン靴店店主 東條たかし など評論家、実業家、
芸術家、学者として名のしれた人もいました。
しかし、多くの人は地域にとどまり、謙遜、誠実、
勤勉な人として その一生を送りました。
内村鑑三と井口喜源治
(安曇野の春)
開塾の翌年1900(明治33)年 井口喜源治と同郷の
荻原碌山は東京で開かれた 内村鑑三の夏季講談会に出席、
内村は井口の教育理念と研成義塾の趣旨に感動し、
1901(明治34)年9月22~24日研成義塾において
「心理の攻究法」と題して三回連続講演を行っている。
内村は研成義塾に対して日記の中でこう記している。
『余は小にして大なる 此 義塾を信州の地に発見して心窃かに
信州万歳を絶叫せざるを得なかった。嗚呼、広き天下に
此 小義塾に同情を寄するものは他にあるまい乎・・・』
その後、内村は 1903(明治36)年9月19~21日に
三回連続講演
1910(明治43)年10月15日に
『教育の基礎としての信仰』と題して講演
創立30周年記念式典には(病床にあった為)代理者に
祝辞を代読させるなど精神面で支援しています。
また、経済面では相馬家(新宿中村屋)、地元の人々、
卒業生達などが支援しました。
明治中後期には卒業生70人余が米国シアトルに移住!
井口は手紙で連絡を取り続けました。
《井口の孫の喜文さんは2007年にシアトルを訪問した際、
塾出身者の子や孫達と交流し
『間違ったことをするな』『まじめに働け』 など研成義塾の教えが
今も受け継がれていることを知り感動したと 述べています。 》
第2次大戦中、在米日系人の強制収容に抵抗した
ゴードン・ヒラバヤシさん(1918~2012年)
(人権擁護活動家、カナダ アルバータ大学元教授)は
シアトルに渡った元塾生の2世!(一家は無教会のキリスト教徒)
2012年1月2日
カナダのアルバータ州エドモントンで93歳で死去。
2012年5月29日
戦時中の日本人強制収容は憲法違反だと訴え続け
後に勝訴するなど 人権擁護活動を評価され
大統領自由勲章を授与された。
『大統領自由勲章 アメリカで最高位の勲章!
1964年にはあの有名なヘレンケラーも受賞している。!』
(穂高には井口喜源治記念館、荻原碌山美術館があります。)
参考資料
(信濃毎日新聞 特集信州教育) (群馬大学教育学部記要) (wikipedia) (資料館中村屋サロン)