私は日本の捕虜だった!
真珠湾攻撃の報復攻撃隊
ドーリトル爆撃隊爆撃手ディシェイザー物語
『私は日本の捕虜だった!』
彼の父は牧師のかたわら、農業をしていた。
彼が2歳の時、父が天に召される。
彼が5歳の時、母は継父と再婚した。
二人とも敬虔なクリスチャンだった。
子供のころの彼は聖書の話を聞くのがすきだった。
しかし、ハイスクールの時、聖書は心理ではないという教師の
話を信じてしまった。それからの彼は悪の道に染まっていった。
学校は怠ける、煙草はのむ、手あたり次第物は盗む
やがて、警察に捕まってしまう。
父母の悲しみは如何許りであったか!
彼も反省して 以後は真面目になった。
様々な仕事を経験し やがて陸軍の航空隊に入隊する。
この陸軍時代に日本軍によるハワイの真珠湾奇襲があった。
対日報復爆撃
この作戦が秘密裏に進められて行く!
特殊任務という事で募集があり、彼は志願する。
何処へ、目的さへ伏せられたまま訓練がはじまる。
家族にも 兵士達の居場所さえ 教えなかった。
出港しても目的地は暫らくの間 伏せられたままだった。
やがて、作戦の全容が告げられ 忙しい日々を過ごす。
その作戦とは?
日本の飛行機が飛んで来れない距離(日本本土から約600㎞)の
所から離艦し 日本を攻撃し そのまま中国の蒋介石の支配地域に
着陸するという 片道燃料の厳しい作戦であった。
しかも、日本の哨戒漁船に戦隊が発見されたため
作戦は早められ日本から1200㎞地点から発艦した
ディシェイザーの乗ったB25は低空飛行で名古屋を攻撃した
爆撃手の彼は石油タンクめがけ爆弾を投下した。
攻撃後、夜に中国の海岸線に到着した。燃料はあと1時間!
霧が濃く、何処か分からない!1時間後街の灯かりが見えた。
無線で呼びかけるも応答はない!
旋回し飛行場の灯りを求めたが・・・ 中尉が『飛び降りろ』と叫んだ!
彼は2番目に下部の出口から飛び出した!
愛機が頭上を飛び去った!
落下傘の紐を引くと直ちに落下傘は開いた。
風はなく、真っ暗で、霧が深く、言い得ぬ寂しさを感じた。
(この時、米国の母も突然、空中を下へ、下へ、下へと落ちて行く
不思議な感じがして目が覚める。魂を圧するような 恐ろしい
苦しみに困り果て、神様に泣いて祈った。すると苦しみは消え
煩いのない眠りに漂い入ったと後日、証言して居られる。)
暗い中を降下し、突然地面に打ちつけられた。しかし・・・
そこは日本軍の支配地域であった。彼を含め皆、捕らえられた。
何名かは処刑され、残された者は(彼を含め)無期懲役となる。
それから、3年4ヶ月 捕虜となり獄中で過ごす!
ある時、飢えと寒さで仲間の一人が死亡する!
その後、待遇が幾分改善され、食事の量も増え、読み物も
与えられ その中に聖書もあり 彼も3週間読む事ができた。
彼は貪るように聖書を読み、旧約から新約まで読み通し
聖句を出来るだけ多く暗記した。
子供のころ学んだキリストの生涯の物語を
予言している事に驚き、イザヤに神が書かせたと確信した。
そこにはこう書かれている!
彼には私たちが見とれるよな姿もなく
輝きもなく
私たちが慕うような見ばえもない
彼はさげすまれ 人々からのけ者にされ
悲しみの人で病を知っていた
人が顔をそむけるほどさげすまれ
私たちも彼を尊ばなかった
まことに 彼は私たちの病を負い
私たちの痛みをになった
だが 私たちは思った
彼は罰せられ 神に打たれ 苦しめられたのだと
しかし 彼は
私たちのそむきの罪のために刺し通され
私たちの咎のために砕かれた
彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし
彼の打ち傷によって私たちは癒された
私たちはみな 羊のようにさまよい
おのおの 自分かってな道に向かっていった
しかし 主は 私たちのすべての咎を
彼に負わせた
彼は痛めつけられたが
それを忍んで口を開かず
ほふり場に引かれて行く子羊のように
毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように
彼は口を開かない
しいたげと さばきによって 彼は取り去られた
彼の時代の者で だれが思ったことだろう
彼がわたしの民のそむきの罪のために打たれ
生ける者の地から絶たれたことを
-中略ー
彼が自分のいのちを死に明け渡し
そむいた人たちとともに数えられたからである
彼は多くの人の罪を負い
そむいた人たちのためにとりなしをする
(イザヤ書53章より抜粋)
改 心
1944年(昭和19年)6月8日、ローマ書10章9節を彼は読んだ。
『人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。』
家から遠く離れた極限の獄舎で彼は救われた。
(飢えと寒さの氷つくような監房で)
彼は悔い改め、罪の赦しを神に祈り求めた。
『もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で
正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から
私たちをきよめてくださいます。』(ヨハネの手紙第一 1章9節)
罪赦され、悔い改めた獄中の彼に神の愛が注がれた。
私の心に流れこんできたことを覚えている。》と証言している。
その後の彼は愛の人に変えられた。
ある日、看守が彼を監房に連れ戻す際、部屋の戸を開け
彼を押し込んだ、その戸に彼の足が挟まった、看守は
その素足を鋲の軍靴で蹴った、彼は戸を押し戻し
足を中に入れた。あまりの激痛に看守に対し
憤りと怨みがこみあげた。
その時、暗記した聖書の言葉が示された。
『なんじの敵を愛せよ』!
彼にとってこの言葉は受け入れ難かった。
しかし、つぎの朝、その看守に心を込めて
《おはようございます!》と挨拶すると
看守は戸惑った表情を見せた。
つぎの日も、つぎの日も心を込めて挨拶した。
やがて、二人は互いの兄弟のことを限られた言葉で
話した。その後、この看守はとても親切にしてくれるように
なり、怒鳴りつけたり、荒々しく扱ったりしなくなった。
ある日、戸の隙間から 甘くて美味しいふかし芋を
差し入れてくれた。又、時には魚のバタ揚げや飴玉をくれた。
それで、彼は《なんじの敵を愛せよ》という 神のみちが
最善のみちであることを確信した。
彼の学んだ教訓
『私が試みた敵のなかから友をつくる事は、困難ではない。
もし、試みるならば神の道は動きだす。イエスが
《互いに相愛すべし》と語ったとき、行うべき最善の道を
示されたのである。このみちは、試みられる他の如何なる
みちよりも勝って成就する。しかし、人々は、やはり、
他のみちを試みては自分を混乱させている。』
南京の獄舎から北京の獄舎へ
1944年(昭和19年)のクリスマスの日
射撃しながら屋根の上すれすれに飛ぶのが見えた。
日本軍が地上から応戦する音が聞こえた。
爆弾がさく裂するおとが聞こえ、黒煙が空に上っていった。
次の年の6月、捕虜たちは汽車に乗せられ北に
40時間の北京に向かった。駅に着くとトラックで
北京の獄舎へ送られた。そこには何らかの罪を犯した
千人位の日本兵が服役していた。
捕虜たちはおのおの独房に収監され、以来外へ出て
運動する機会は与えられず、互いに顔を合わすのは
週1回の入浴の時だけとなった。
監房には5~6人の日本兵囚人が収容され、姿勢を崩さず
2時間正座させられ、その後は足を真っすぐに延ばし
背には何の支えもなく、座わらされた。
捕虜たちは幅6センチ、長さ12センチ、高さ24センチの
小さなベンチが与えられ、壁から1メートルのところに
壁に顔を向け腰かけているよう命ぜられた。
こんな中、1ケ月後 75もの悪質の腫物と赤痢で
体が弱り痩せて2~3週間臥床した。
暗記していた聖書の言葉を何度も、何度も繰り返した。
天国へ行ったメーダー中尉に会える日も
遠くないようにさえ思えた。心臓が痛み始めた。
中尉が亡くなる前、心臓が痛むと言っていた。
彼は非常に弱っていたが床から起き、小さなベンチに
腰かけた、唯 癒し給えと祈りつつ!
このまま死ぬか、神が癒し給うか!
それまでは腰かけていようと決心して!
まもなく、神の声が彼の想念の中に入って来た。
『汝に語るは聖霊である』と不可思議の声が言う。
『聖霊は汝を解放せり』と
助け主、慰め主なる聖霊に彼は祈り助けを求めた。
彼は常に空腹であったが食べると病状が悪化する事が
度々あった。 そこで食事が戸口に運ばれる度に
祈り、「然り」であれば食べ、「否」であれば返した。
2日間食べることも飲むことも許されなかった。
大変体は弱ったが、病は去っていった。
彼は戸口の前に跪き手を合わせ祈り始めた。
(これは獄舎の規則違反の行為である)
看守がベンチへ戻れと大声で怒鳴ったが
彼は動かなかった。まもなく、数人の看守と医師が
やって来た。医師が彼を抱き上げ畳に寝かせ
腕を捲り上げ注射をした。
食事の時になって彼は驚いた。
美味しいミルク、ゆで卵、上等のパン、滋養のあるスープ
彼は神に感謝した!
この時から解放の日まで滋養食を与えられ寝て休養した。
8月10日の朝、目覚めると
「祈り始めよ」と告げる声が聞こえた。
「何を祈るのですか」と尋ねると
「平和の為に祈れ、やめずに祈れ」と告げられた。
彼は平和の為、また、日本の平和の為にも祈った。
午後2時、聖霊が
「戦いは勝利に終わりたれば祈る必要なし」と語った。
この日は日本が連合軍に無条件降伏を
申入れした日である。
2~3日たって、窓から書類を焼く煙を見ていた時、
「戦争は勝利に終った」というニュースがあった。
勤務についていた看守たちは新しい服をつけている。
彼らは古い服を脱ぎ捨て給品庫へ押しかけていた。
終わりがついに来たのだ!
彼は日本が受けるであろう大きな打撃について心配した。
この時、聖霊の声が明らかに語った。
『汝は召されたり、行きて日本人を教えよ
汝の遣わされるところに行け!』
やがて、米国の落下傘救出部隊によって
捕虜たちは解放され帰国した。
召命を受けた彼は帰国後、神学校に学び
1948年12月14日船でサンフランシスコ港を
妻と愛児を伴い、爆弾ではなく聖書を持って出発した。
彼の母の後日談
彼が日本軍の捕虜になったと知り、いつもこう祈っていた。
彼の命が保たれるように
魂が救われるように
何か役に立つ仕事に召し給えと
そして、この祈りは全て聞かれた!
日本での宣教
元捕虜の敵を赦し、《互いに、相愛すべし》という
福音は多くの人に感動を与え、多くの魂が救われた。
そして、宣教会場で南京の獄舎で彼の足を蹴った
看守と再会した。
聖書を読み、神の救いを受け愛の人に変えられた
ディシェイザーの変化を目撃した人である。
元看守は、聖書を読み学んでいると告白した。
この頃、ディシェイザー宣教師はマッカーサーと
米世論に赦し会うことこそ偉大な勝利だと
東京裁判の死刑囚に慈愛を!と嘆願している。
1年程するとデモなどが頻繁に起きるようになり
人々の求めも捕虜収容所の証より
「救われるとは?」と問われるようになって来た。
ディシェイザーは日本の救いの為、
40日間の水だけ飲む断食をした。
その間も宣教活動は休まず続けた。
その後に、真珠湾攻撃の総隊長
渕田美津雄との出会いがあるのである。
米国の宣教団体が
『私は日本の捕虜でありました』というパンフレットを
印刷し、100万部余り配布していた。
このパンフレットを読み、聖書を読むようになり
救われたのが渕田美津雄である。
なんと アメイジンググレイス 不思議な出会いである!
聖書のことば
怒ることをやめ 憤りを捨てよ
腹を立てるな それはただ悪への道だ
悪を行う者は断ち切られる
しかし主を待ち望む者 彼らは地を受け継ごう
(詩篇37:8~9)