ハレルヤじじいの福音ブログ

ギターの好きなじじいです。

真珠湾攻撃総隊長 渕田美津雄 キリスト者となる

過日 NHKスペシャル

   ~憎しみの連鎖は«真珠湾≫から始まった~
 
                        しょくざい
       ふたりの贖罪
       日本とアメリカ 憎しみを越えて

が放送された。今は DVDで見ることができる。
 
淵田美津雄少佐は1941年(昭和16年)12月8日未明、
ハワイの真珠湾を360機の機動部隊を率い攻撃し
この時に太平洋戦争が始まった。
 
この攻撃に怒り 日本本土への初空襲に志願したのが
アメリカ陸軍のジェイコブ・ディシェイザーだった。
 
このふたりが後に運命的出会いをするのである。
 
アメリカの日本への初空襲は決死的作戦だった。
日本の飛行機が来れない距離から片道燃料で空母から
飛び立ち 中国の味方(蒋介石)の支配地域に
着陸するというもので ディシェイザーの飛行機は
名古屋に数百発の爆弾を投下し 中国に着いた
機体が故障していた為 パラシュートで降りたが
しかし、そこは日本軍の支配地で捕虜になってしまった。
 
拷問を受け 殴る 蹴るの虐待を受け 一年程した時
仲間の一人が栄養失調で死んでしまい
日本人が憎くて 憎くてたまらなかった。
憎しみが絶頂に達した頃 子供のころ聞いた 
エスキリストの愛について 思い巡らすようになった。
彼は無性に聖書を読みたくなった。
その日から彼は看守の顔さえ見れば 聖書をねだる
ようになったが なかなか実現しなかった。
 
求めよさらば与えられん
 
ある時 看守の一人が期限付きで英語の聖書を差し
入れてくれた。 むさぼるように彼は聖書を読んだ。
聖書のみ言葉が彼の心にたましいに染み込んできた。
 
主は心の打ち砕かれた者の近くにおられ
たましいの砕かれた者を救われる  
                       (詩篇34:18)

彼は救い主 イエスキリストを信じ 
天地創造主なる神を愛し
隣人を自分と同じように愛する』という
聖書が啓示する愛の人に変えられた。
 
この変化に 周りの人たちは気づいた。
反抗的で嫌がらせに スープにミミズを入れられるような
彼であったが 変化後には 暖かい焼き芋が
差し入れられた。
 
 
聖書を読み 祈るうち
彼はこんなことを祈るようになっていた
 
『この戦争が終わった時 御心ならば
私を宣教師として 日本に遣わして下さい。』と
 
『神は みこころのままに あなたがたのうちに
働いて志を立てさせ 事を行わせてくださるのです。』
                        (ピリピ人への手紙 2:13)
 
やがて 終戦となり 1945年(昭和20年)8月20日
アメリカの落下傘部隊が北京に降下し
彼は救い出され、帰国した。
 
1948年(昭和23年)12月14日 彼は
サンフランシスコ港から爆弾ではなく 
聖書を抱え 宣教師として妻と愛児と共に
日本へ向け 船で出発した。
 


 一方 終戦を向かえた日本で淵田美津雄は
連合軍を迎えるべく 働き始める。
マッカーサーが降り立つ予定の厚木基地には
徹底抗戦を主張する隊長が居座っていた。
これらを制圧し やがて マッカーサー
サングラスにパイプをくわえ タラップを降りてきた。
その厚木基地で淵田はマッカーサーを出迎えた。
 
戦後処理が始まり 東京裁判の証人として
淵田は奈良から 度々 呼び出された。
そんな中で 反証の材料を集めようと
アメリカの捕虜になって帰国した人々から
その時の待遇など 聞き取り調査をしていた。
様々な嫌がらせを受けたとの証言が多い中
ロッキー山脈のふもとの収容所にいた 手や足がない
重傷者の20人ほどの中のひとりが 嫌がらせはあったが 
それらを忘れさせる程の手厚い看護を受けたと
話してくれた。 彼らは手当てを受けながら 
義手や義足なども 作って貰っていた。
 
 終戦の半年前のことである。捕虜収容病院に
二十歳前後の米国人女性が現れ、親身も及ばない
看護を始めた。捕虜たちの身辺に不足しているものを
見つけると、翌朝には買い整えるサービスぶりであった。
時が経つうち、捕虜たちは心うたれ 彼女に問うた。
 
なぜ あなたは私達に、
こんなに親切にして下さるんですか?』と
 
なかなか、話さなかったが問い詰めるうち重い口を開いた。
 
『じつは私の両親が日本軍に殺されたからです。』と
びっくりし仔細を尋ねると・・・
 
(彼女の名はマーガレット・コヴェル)
 
彼女の両親は宣教師で日本にいたが国交が危うくなり
引揚勧告に従いマニラに移った。やがて日本軍のマニラ
占領となり、難を避け北ルソンの山中にかくれた。
日本軍にとっての戦況が悪化し、ゲリラにも悩まされ
日本軍は秩序の失われた敗残の軍隊となっていた。
こんな中でコヴェル宣教師夫妻の隠れ家が日本兵
見つかり、所持品の中に小型ラジオ受信機があり
これを小型秘密通信機を持ったスパイと判断され
二人はその場で処刑されてしまった。
処刑される前、二人は心を合わせて熱い祈りを
捧げていたという。これを目撃していた土民が
後にアメリカ軍がこの地を占領した時
この事を証言した。この仔細が本国にいた娘に知らされた。
マーガレットの悲しみは察するに余りある。
彼女は両親の最期の祈りを想ってみた。
両親はなんと祈ったのかと・・・
 
それは おそらく 自分を殺そうとする者のために
十字架のうえでイエスが祈られた あの祈り
 
「父よ。彼らをお赦(ゆる)し下さい。
彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」
                           (ルカの福音書23:43)
 
この 十字架のキリストの愛を命がけで
宣教師として宣べ伝えていた両親!
 
祈るうち、マーガレットはあることに気付かされた
この町の捕虜病院に日本の負傷兵が収容されている事に!
敵をも愛するキリストの愛を宣べ伝えた両親の
遺志を継ぐべく、 さっそく、彼女は病院の許可をとり 
ソーシャルワーカーとして働き始める。
負傷捕虜を感動させた その献身的な奉仕の働きは
一日も休むことなく終戦まで続いた。
 
この話は 私の心を激しく打った。と淵田は述べている。
 
占領軍司令部に度々呼び出されていた淵田は
ある日、渋谷の駅前でアメリカ人から小冊子を手渡された
その表紙には写真入りで、こう書かれていた。
 
『私は日本の捕虜でありました。』
 
そこには、真珠湾奇襲に怒った若きアメリカ兵が
日本本土を爆撃し、中国の日本支配地で捕虜として
3年4ヶ月過ごし、戦後 宣教師として来日していた等
冒頭に記述した ディシェイザーの回心手記が記されていた。
この手記を読んで、淵田はで聖書を読んでみたくなり
買い求めたが忙しさにかまけて、あまり読まなかった。
ある日、宿舎で朝日新聞天声人語聖書ついて
書かれていたものを読んだ。
 
「聖書は世界のベストセラーといわれている。
人類の話すあらゆる国語に翻訳されている。
現代において、もし島流しの刑があると仮定して
島に流すにあたって、たった一冊だけ本を持って行くことを
許すとの判決であったとしたら、世界人たちは
その一冊を聖書に求めるだろう・・・。日本の皆様よ
まだ、一度も聖書を読んだことのない人がいらしゃいますなら
心を開いて三十頁だけでよいから読んで御覧なさい。
必ずあなたの心を打つものがあるでしょう。」
 
その日から淵田は熱心に聖書を読むようになった
やがて、ルカの福音書23:34のことばにであった。
そこには文語体でこう書かれてあった。
 
『かくてイエス言いたもふ、父よ、
彼らを赦し給え、その為す処を知らざればなり』

その時突然 淵田は気付かされた
この祈りこそマーガレットの両親の最期の祈りだったと!
そして、『彼らを赦し給え』の彼らの中に自分もいることを!
マーガレットは両親を殺された憎しみでなく
両親の最期の祈りを実践し、
キリストの十字架の愛を持って、負傷捕虜たちに
懸命に尽くした。その けなげなマーガレットの姿に
淵田の感激の涙が頬をつたった。
 
キリストの救いを受け、洗礼を受けた淵田は
憎しみの連鎖を断つ伝道を主に全米各地で
15年間余り精力的に行った。
 
淵田のアメリカ伝道の旅は八度
真珠湾は三度
国内や台湾、カナダ、欧州へも
 
回目の伝道旅行では全米47州、8万㎞以上、6ヶ月間
途中で車を一台更新、
町や村々の教会での講演は一日数回行った。
日程には休日らしい休日はなかった。
 
淵田氏をここまで駆り立てたのはなんであったのか?
おそらく、日本兵に殺されたマーガレットの両親
コヴェル宣教師夫妻の最期の祈りであり
マーガレットのけなげな、献身的な奉仕への感動であり
 
これこそ 憎しみの連鎖を断つ伝道の動機ではなかったのか。
 
 『怒ることをやめ、憤りを捨てよ。
 腹を立てるな。それはただ悪への道だ。
 悪を行うものは断ち切られる。
 しかし、主を待ち望む者、
 彼らは地を受け継ごう。』
             詩篇37:8~9)
 
『柔和な者は幸いです。その人たちは地を受け継ぐから。
平和をつくる者は幸いです。
その人たちは神の子どもと呼ばれるから。』
                   (マタイの福音書 5:5,9)
 
参照
 
真珠湾攻撃総隊長の回想
   渕田美津雄自叙伝
   編/解説 中田整一      
 
詳細は上記の本をお読みください。