ハレルヤじじいの福音ブログ

ギターの好きなじじいです。

十字架をかついで 日本縦断をされた牧師さん!

 キリストは十字架で 罪にけがれた我を清め、贖い

天地創造主なる父なるみ神に つながる道を

造って下さった。

 

『わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。私を通してでなければ、

だれひとり父のみもとに来ることはありません。』ヨハネ14:6)  

 

 

 

 

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キリストの福音を宣べ伝える 牧師さん❕

悲しみよありがとう

悲しみよありがとう

 

水野源三さんの作られた讃美歌を織り交ぜた素敵な動画です。

始まるまで ちょっと時間がかかりますが・・・

 

 

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聖イエス会 福音教会の皆さんが作られた源三さんの動画です。

源三さん作詞の讃美歌を織り交ぜた素敵な作品です。

 

聖イエス会 福音教会は歴史のある教会ですね。

創始者の大槻武二は同志社にて 金森通倫衆議院議員石破茂はひ孫)より受洗

金森通倫は新島襄が帰国後、始めて洗礼をさずけた人物

 

新島襄についてはここをクリックして ↓ ご覧下さい。

 

群馬県が生んだ キリスト教界 三大巨峰! - ハレルヤじじいの福音ブログ (hateblo.jp)

星野富弘 Ⅰ

内村鑑三 Ⅱ 

新島襄  Ⅲの順に書いてあります。

寅さん天国に旅立つ❕男はつらいよルーツ篇

 はじまりの始まり  

これから書くことは、フィクションであるが限りなくノンフィクションに

近いと自認している!

 

 1921年(大正10年)頃、夜汽車に乗って東京に旅立つ若き男女がいた。

二人は故あって、駆け落ちした。田所康雄のちの渥美清の両親である。

父は新聞記者、母は小学校教師 安定した職を捨て上野駅近くの長屋に

住み着いた。母は内職をして家計を支えた。 

 

その両親の故郷で『寅次郎サラダ記念日』は撮影された。

父の故郷は信州小諸近くの祢津村、母の故郷は信州上田真田郷

母は子供の頃、その事を隠していた「わたしゃ会津だと」!

 

映画「サラダ記念日」は小諸の病院の医師役 三田佳子(マドンナ)と

真田郷の山奥の過疎の村に住む一人暮らしの老婆役 鈴木光枝で撮影された。

 

父の故郷が小諸近くの祢津村だという事は「小諸寅さん会館」の

受付にいた井出館長の息子さんに教えて頂いた。

渥美さんは小諸の井出さんのところにプライベートで時々遊びに来ていた。

母の故郷が真田は渥美さんが当時の真田町役場を表敬訪問された際

 

 

「実はわたくしの母親がこちらの町の出身でして」と言われた。

風の噂に寅さん会館も真田に造りたかったとか??

真田は真田幸村の真田家発祥の地です。

映画の中にも「真田十勇士」というセリフが出て来ます。

 

信州小諸、田所康雄少年と戦後の焼け跡で出会う永六輔少年も戦時中

この小諸に学童疎開して、上田市の現上田高校に通学していた。

 

田所康雄は子供の頃は身体が弱く、病気がちで学校も休みがちであった。

休みの日にはラジオを聞いていた。落語や

徳川夢声夢声映画の弁士で後ラジオの声優)の朗読などをきいていた。

したがって成績は下位であったが覚えた落語を学校で披露していた。

 

風天句

  おふくろ見にきてるビリになりたくない白い靴

  肌寒く母かえらぬ路地に立つ

  切干とあぶらあげ煮て母じょうぶ

 

戦後 焼け跡 不思議な出会い

 

               誰も知らない渥美清 (永六輔独占手記)より

 

焼け跡の不良少年 田所康雄 テキヤに憧れ 「上野のヤス」と呼ばれ

一目置かれる存在だった。(後の渥美清

永六輔少年は小遣い稼ぎに 焼け跡から鉄くずを集めてヤッさんに

買って貰っていた。子供相手でもピンハネなどしなかった。

そのうちに 公共物を外して売る少年達のグループが出てきて

田所少年は菊屋橋の交番にひっぱられ 

役者になることをすすめられる。

 

 

『お前みたいな一度見たら忘れられない顔は泥棒には向かない。

ここは浅草なんだから役者になった方がいい。

一度見たら忘れられない顔は役者に向いているんだ。』

 

風天句

  むきあって同じお茶すするポリと不良

  豆まきもたねまきも家に居ずおそまきに泣く不幸者

 

 1947年(昭和22年)六歳上の優秀な兄、健一郎が二十五歳の

若さで亡くなってしまう。

この頃から焼け跡の不良少年「上野のヤス」は

役者への道を歩み始める。

 

 「永六輔独占手記」の中 渥美さんが父親について語った事が書いてある。

 

    「親父は山路愛山という新聞記者に憧れて自分でも

     愛山という号を使って文章を書いて書いていた」

 

 渥美清はめったに家族の話をしなかったが、

この愛山という名前だけは妙に忘れられない!と永さんが書いている。

 

明治時期 愛山は信濃毎日新聞主筆をしていた。

父、友次郎氏は愛山の文章を読んでいた。

そしてご自身も憧れの新聞記者になった。

 

山路愛山とは

カナダ メソジスト系の宣教師から英語を学び1886年キリスト教に入信

静岡協会に所属し静岡バンドの一員になる。

東洋英和学校神学部を卒業

職業 伝道師、評論家、歴史家

 

  

 

渥美清 役者としての歩み

 

 

1946年(昭和21年)新派軽演劇の座長に誘われ、一座の幕引きになる。

         初舞台は通行人

1951年(昭和26年)浅草・百万弗劇場の専属コメディアンになる。

1953年(昭和28年)浅草・フランス座(ス〇リップ劇場)に入る。

         コメディアンの谷幹一関敬六らと出会う。

         45°の焼酎を煽っては舞台に飛び出していた。

(この頃、銭湯で後の脚本家早坂暁と出会い、生涯の友となる。)

 

1954年(昭和29年)結核療養のため入院(右肺切除)

(この体験が人間 渥美清を大きく成長させた。片肺故に弱者の立場に立てる者として!小学校の親友にあてた言葉のごとく『頑張れ、踏ん張れされど威張るな』の如く)

 

1956年(昭和31年)退院。フランス座に復帰。井上ひさしと出会う。

         父友次郎 死去

(退院後は酒もタバコもやらず、健康には気をつけるようになった。)

 

1958年(昭和33年)有楽町日劇に出演 

         関敬六谷幹一と「スリーポケッツ」を結成

 

1961年(昭和36年NHK テレビバラエティー番組のレギュラーになる。

         「若い季節」「夢であいましょう

 

1962年(昭和37年)テレビドラマ「大番」(フジ)主演

         松竹映画「あいつばかりが何故もてる」映画初主演

 

1963年(昭和38年)松竹映画「拝啓天皇陛下様」主演

         東映「おかしな奴」で三遊亭歌笑(主役)を熱演

 

1964年(昭和39年)東京映画「ブナワ・トシの歌」主演

         アフリカ長期ロケ、翌年公開

 

1966年(昭和41年)東映「沓掛時次郎・遊侠一匹」

         チンピラやくざを好演

 

1967年(昭和42年)東映「喜劇・急行列車」主演

 

1968年(昭和43年)テレビ連続ドラマ「男はつらいよ」(フジ)主演

 

1969年(昭和44年)41歳の時、24歳の竹下正子さんと結婚

         松竹映画「男はつらいよ」第一作公開

 

1970年(昭和45年)母多津死去(78歳)

 

1972年(昭和47年)松竹=渥美プロ提携「あヽ声なき友」主演、プロデューサーも

         芸術選奨文部大臣賞を受賞

 

1975年~1988年にかけて数々の賞を受賞 (この頃 ギネスブックに掲載された)

         日本映画テレビ製作者協会賞特別賞

         ブルーリボン賞主演男優賞

         日本アカデミー賞特別賞

         都民文化スポーツ栄誉章

         紫綬褒章

 

1995年(平成7年)「男はつらいよ」第48作(遺作)

         「寅次郎紅の花」公開

 

1996年(平成8年)8月転移性肺がんのため 死去(享年68歳)

         9月国民栄誉賞 受賞

 

 天国に旅立った 寅さん!

  白百合学園出身で学生の頃からクリスチャンだった奥様の正子さん!

 

寅さんこと渥美さんこと田所康雄さん!

亡くなる直前にキリストの福音に預かる洗礼を受けられた

付き人の篠原さんがその著書「精いっぱい生きてんの」の中に

書いておられます。

 

 役者でありながら、渥美さんに憧れて最後の付き人として

14年間仕えた篠原さん!

渥美さんには一度も怒られたことがないと著書の中で証言しておられる。

ある時、預かっていた小道具(時計や指輪など)を忘れて撮影現場の島に

渡ってしまった。その時も演技でカバーしてくれた。

何処までも寛容の人であった。

片肺の弱さを持ったが故、人に対して優しかった。

この優しさ!こそ映画『男はつらいよ』の人気の根源であると思う。

 

聖書のことば

『わたしは高く聖なる所に住み

 心砕かれて へりくだった人とともに住む

 へりくだった人の霊を生かし

 砕かれた人の心を生かすためである。  』

                (イザヤ書57の15)

『精いっぱい生きてんの』

1991年 『男はつらいよ 寅次郎の告白』44作頃に肝臓に癌が見つかり

     その後は 治療を受けながら!ガンと闘いながら!の

     撮影となる。

1995年 『男はつらいよ 寅次郎 紅の花』

     この頃には撮影現場に来たファンの声援に応える事が出来ない程

     疲れ果てていた。

1996年  転移性肺がんのため (8月4日)享年68歳

     鎌倉の松竹大船撮影所で「お別れの会」(13日)

風天句  『背のびして大声あげて虹を呼ぶ』

 

 

こちらの記事もクリックして ご覧下さい。

男はつらいよカバー(捨て身の愛) - ハレルヤじじいの福音ブログ (hateblo.jp)

 

    

      

 

 

 

 

         

 

空が私を見つめるようになった。



  空

   毎日 空をみていた 空が変った

 涙を流し 友が祈ってくれた あの頃

 恐る恐る開いた マタイの福音書

 あの時から 空が変った

 空が私を 見つめるようになった

                           (詩 星野富弘

 

1970年 事故で手足の自由を失う

口に筆をくわえ 詩画を書くようになる

全国各地で 『花の詩画展が開かれ』 大きな感動を呼ぶ 

 

やがて みどり湖 湖畔に「星野富弘美術館」ができる

 

 

 

 

聖書のことば

 

主は天から 人の子らを見おろして

神を訪ね求める 悟りのある者が

いるかどうかを ご覧になった

                          詩篇14:2)

ゴスペルバンド サルーキ

サルーキ の素敵な讃美 下記をクリックしてご覧下さい。

 

 

(277) [賛美]サルーキ=/楽園|HOLY SESSION #08(日本CGNTV) - YouTube

 

 

 

 

 

 

 

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(277) 2017.05.28_TOKYO CALVARY CHAPEL_東京カルバリーチャペル_ハイアットリージェンシー東京_サルーキ=_SALUKI=__00093 - YouTube